2008年06月08日

機能美

今まで、洋服を買う時一番重視することは何か、と聞かれたら、私は迷わず「機能美」と答えていました。夏服であれば通気性の良い涼しいもの、冬服ならばとにかく暖かいものを選びますし、そういった部分以外にはあまり目を向けなかったからです。
そんな私にとって、外見を最重要とする考え方は、全く相容れないものでした。仮に色や柄が自分の好みに合ったものであっても、もし手に入れてから扱いに困るようであれば、それはもはやお金をどぶに捨てたようなものだと思っていましたし、逆に、色が自分に合わないと感じたり、少々安っぽいデザインであっても、満足できる機能を有していたら、長い付き合いが出来る、とも考えていたのです。

しかしながら、ここでいうところの「機能」とは何なのでしょう。それはすなわち、「どれだけ役に立つか」ということなのだと思うのですが、ならば、たとえば「無駄に厚手のTシャツ」だとか「穴だらけですうすうするコート」が「機能」を有していないのか、と考えた時に、必ずしも、それらがただの「役立たず」だとは言えなくなってくるような気がするのです。何故なら、「無駄に厚手のTシャツ」の柄や「穴だらけですうすうするコート」の奇抜さに心を奪われる人が、もしかしたらいるかもしれない、と考えたからです。

「このTシャツは無駄に生地が厚くて着ていると汗が止まらないけれどデザインが素晴らしいので晴れ晴れとした気分になれる」「このコートは穴だらけでちっとも保温性がないがこれを着ているとすれ違う人たちが物珍しさにこっちを見てくるのでなんとなく優越感に浸れる」・・・よくよく考えてみれば、これらも一つの「機能」であり、間違いなく人の「役に立」っているわけです。
こんな風に突き詰めてしまうと、恐らくこの世に存在するほとんどのものは誰かに強く作用するはずで、当然「機能美」もちゃんとそこにある、ということになります。

もはや「機能」とは、人それぞれに価値判断のゆだねられた、非常に曖昧なものなのであり、また、「機能美」という単語には、「意味」と言うにはあまりにも漠然としたニュアンスしか残されていないのです。

失礼いたしました。

投稿者 reroy : 23:40 | コメント (0)

2008年04月14日

99%と100%

「○○が××するのは、〜するためと言われています。」
こういうセリフを、動物番組でよく耳にします。

説明するまでもないのですが、「○○」には動物の名前、「××」にはその動物の行動、そして「〜」には「○○」が「××」する理由が入るわけです。例えば、「エリマキトカゲが襞を広げるのは、天敵を威嚇するためと言われています。」といった具合です。

実際にTVで聞いた時、なるほどな、と頷きながら、明日友人に言いふらしてやろう、とほくそ笑んだりするのですが、ふと考えてみると、この類の情報は、言いふらすには少々不適切な気がするのです。なぜならば、実は、「○○」が「××」する理由が「〜」であるとは言い切れないからです。

もう一度、例文を軸に考えて見ましょう。「エリマキトカゲが襞を広げるのは、天敵を威嚇するためといわれています。」、これを読んでみると、「なるほど、エリマキトカゲは天敵を威嚇するために襞を広げるのか」と思ってしまうところですが、重要なのは、最後の「と言われています。」の部分です。この表現には、「エリマキトカゲ」が「襞を広げるの」が、「天敵を威嚇する」という「確率が高い」、というニュアンスがあります。逆に言ってしまえば、(繰り返しでしつこいですが)「エリマキトカゲ」が「襞を広げる」もっとも妥当な線として、「天敵を威嚇する」という理由が挙げられているに過ぎない、ということです。

私は動物の専門家ではありませんから、例文の内包する情報について詳しく知っているわけではないのですが、恐らく、エリマキトカゲは、ほぼ確実に、天敵を威嚇するために襞を広げるのだと思います。実際、インターネットで「エリマキトカゲ」というキーワードで検索した結果、ほとんどのサイトで、エリマキトカゲが襞を広げる理由を「威嚇するためだ」と断言しています。しかしながら、TVや本(この場合、動物図鑑など)といったメディアでこういったものを取り扱う場合、その信憑性には注意を払う必要があります。もし仮に、上記のサイト運営者の方々と同じように、TV局が番組内で「威嚇するためだ」と断言してしまうと、これは問題です。多くの人に影響を与えるメディアが不確かな情報を流してはいけないからです。

しかし、TVで「○○が××するのは、〜するためと言われています。」という情報が流された時、不思議なことに、ほとんどの人は「○○が××するのは、〜するため」なのだと、確信を持ちます。人は、伝わってきた情報を、無意識のうちに解釈し直すことがあるようです。

これはとても面白いことですが、場合によっては危険でもあるでしょう、前述したように、「仮説」のレベルにとどまっているはずの情報が、ネットワークを通じて「事実」として人々の目につく形で著されているのですから。

私自身も、blogサイトを運営する人間として、取り扱う情報には十分注意していきたいと思います。





※エリマキトカゲの例文はWikipediaを参考にさせていただきました。


投稿者 reroy : 21:45 | コメント (0)

2008年04月03日

特別なもの

電気グルーヴは、私が音楽に興味を持つきっかけになったバンドであり、恐らく、今後これ以上の影響を与えてくれるものは存在しないであろうと言えるほど個人的な思い入れの強いグループなのですが、そんな彼らが、去る4月2日、8年ぶりのニュー・アルバム、「J-POP」をリリースしました。
活動休止中にバンドのファンとなった私にとっては、初めて発売当日―実際は発売日の前日―に入手することのできたオリジナル・アルバムなので、今までとはまた違った感慨を抱きながら、繰り返し繰り返し、イヤフォンが干からびそうなほど聴いています。
音楽的素養の乏しい私が彼らの音楽の良さを説明することは、その辺のおじさんが野球中継を見ながら物知り顔で周囲にワシ流采配を披露するのと同等かそれ以下の行為だと思われますので、興味のある方は、WikipediaYoutubeでどういうバンドであるか確認していただければと思います。

さて、前述したように、電気グルーヴは私にとって特別な存在です。ファン暦こそ浅いものの、電気グルーヴ名義のオリジナル・アルバムはすべて購入しましたし、バンドのトラックメイカーである石野卓球氏のソロ作もほとんど持っています。飽き性の私がここまでの熱意を保って追いかけているバンドは、他にありません。自分でも不思議なほど、心酔し切っているのです。彼らに関してだけ言えば、私は気持ちの悪い人間である、と、笑顔で断言できるのです。

おそらく多くの人にとって、音楽・映画・小説・芸術等、ジャンルを問わず、この人(グループ)だけは別格だ、という存在があるのだと思うのですが、その理由は色々とあるにせよ、やはり最終的には「その人(グループ)にしかない味があるから」というところに終始するのだろうと思います。

そういった感覚は、たとえば上に挙げたような遠い場所にいる人たちに対してだけでなく、身近な人間関係においても言えることです。「あいつはすごく面白い」であるとか、「こいつはとても知識が豊富だ」とか、もしかしたら「あいつは金を借りても催促してこない」なんていうものもあるかもしれませんが、とにかく、人と交友関係を持つ際にも、その人の持つ「味」というものを重視した上で付き合うことが多いのではないでしょうか。少なくとも私はそうです。

またもや着地点が見えて来ないままにここまでキーを打ち続けたわけですが、それが誰であれ、特別な人のいることは幸せなことだなぁ、と勝手に高揚感を覚えながら、今回は終了したいと思います。

失礼いたしました。

投稿者 reroy : 21:35 | コメント (0)

2008年03月29日

文章考その1

こんなサイトを運営しておいておかしな話なのですが、長文を書くことが、とても苦手です。

GYOISODONをご覧になればお分かりいただける通り、面倒くさがりな性格もあってか、一つの事を伝える時に用いる単語の数が、極端に少ないのです。ものによっては、本人にしか内容の分からないような、自分以外の人間が閲覧しているblogという場に不似合いな日記も多々見受けられます。

この苦手意識は小学生時代からのもので、「読書感想文」なんてものは、もう大嫌いで仕方ありませんでした。自分の伝えたいことは5〜6行で事足りてしまうので、読んだ本のあらすじを、400字詰め原稿用紙2枚半、つまり、提示された字数の2/3以上も使って、出来る限り詳細にわたって書いていました。
あらすじを書く、というのは、もはや読書感想文の「あるあるネタ」と化していますが、あそこまで中身のない作文を書いていた小学生は、あまりいなかったんじゃないでしょうか。

しかし今までで一番辛かったのは、やはり大学での卒業論文の執筆でした。なにせ、「結論なんかあやふやでもいいから、とにかく量だけしっかりこなして欲しい」というのが教授の要求でしたから、随分と長い間、結論を誤魔化さずに教授の求めるノルマを達成することが出来るのか、というプレッシャーに苦しめられたものです。
最終的に単位を取得することができ、無事卒業することとなったのですが、危惧していた通り、分量を増やそうと意識するあまり、自分なりに納得のいくものは書けませんでした。現在でも、そのことはとても後悔しています。

そもそも、何故どの作文や論文にも「制限」が必要なのか、20歳を過ぎた今でも、まったく理解できません。
人にはそれぞれ考えることがあり、それを公に伝えるために「作文」や「論文」というものがあるわけですが、全員が全員同じ字数で物事を伝えられるわけではありません。100字で十分、という人もいれば、10000字あっても足りない、という人もいます。
なのに、学生時代に課されるのは、「〜字以上」であるとか、「〜字以下」であるとか、とにかく制限の多いものばかりです。

限られた条件の中でいかに優れた文章構成ができるかを学ばせるためだ、というのは分かるのですが、提示する側が「教育」という身勝手なエゴを強いる分だけ、柔軟な考えを持った若い人たちの瑞々しいアイディアを取りこぼしているのではないか、という気もするのです。

そういった作文・論文が不要であるとは言いません。ただ、もう少し自由度の高い環境の中で、のびのびと、好きなことを書き殴れる、そういう機会を、幼いうちに設けさせてあげれば、もっともっと面白いものが世に出てくるのでないか、という思いが、私の中には強くあります。

失礼いたしました。

投稿者 reroy : 01:28 | コメント (0)

2008年03月20日

「おすすめはどれですか」

今年の二月、私は友人と二人でとある焼き鳥屋に行きました。私はそれまで何度かそのお店にお邪魔していたのですが、同行していた友人は初来店だったようで、こんなお店があったんだねぇ、中はこんな雰囲気なんだねぇ、などと言いながらきょろきょろ店内を見回し、まだ見ぬ料理に胸を膨らませているようでした。

私たちは上着を脱いで、いすに座り、それを見計らって、店員さんが注文を聞きにやってきました。私は、最初はつくねかねぎまだ、と生意気にも勝手な自分のルールを作っていたので、とりあえずその二つを、と思い、口を開こうとした瞬間、友人が店員さんに対して、「この店って、おすすめあります?」と、思いがけないことを言ったのです。

私は一瞬、ルールをぶち壊しにされたことに軽く苛立ったのですが、それよりも、この問いに対する答えが気になったので、とりあえず友人と店員さんのやり取りを観察してみました。店員さんは少しの間、眉間にしわを寄せて悩んだ後、売れ行きとしてはこれがいいですけど、と言って、メニューの中にある一品を指差しました。私はその時、その店員さんに親しみを感じました。

私は、こういった質問をされることが大嫌いです。何故ならば、味覚というものは十人十色、各々に美味いと思えるもの、不味いと思えるものが違うのであって、たとえ他人が強く薦めたものであっても、それが必ずしも自分に合うとは限らないからです。特に私は、老舗のラーメンとインスタントのものとの味の区別が全くつかず、どうせ同じ料理なら安い方がいい、という理由でインスタントを選ぶような味音痴ですから、こういうことを聞かれると本当に困るのです。

上のような場合、もし店員さんが自分の好みで品を薦め、友人がそれを気に入らなければ、どうなるでしょうか。友人は、その店員さんの味覚を疑うか、畜生店員の野郎に騙されたと感じるでしょうし、店員さんは申し訳ないと感じるか、もしかしたらそんなことは人の勝手だと居直るかもしれません。どちらにしても、得する人間などいないのです。

しかしながら、このお店の店員さんは、あくまで個人の好みではなく、そのお店で一番売れているものを提示しました。この答えには、数字の物語る圧倒的な説得力があります。お店はその近辺ではよく知られていますから、当然リピーターも大勢います。そこで一番売れているものなので、信憑性の高さは言うに及ばずでしょう。

中には、「これ食ったんですけどめちゃくちゃ美味いっスよ」と自分の好きなメニューをモーレツにレコメンドする、接客なんてお手の物、といった具合のニーちゃんネーちゃんもいるでしょうが、私は、自信がないながらも、なるべく確実で無難な選択をする人の方に好感を持ちます。何故なら、自分の味覚を基準にして、自信満々に個人的な好みを客へ強いる店員の態度を、図々しい、と感じてしまうからです。胸を張って言うことでもないのですが、食に対する価値観が私と合致する人間など、そうそういるものではありません。仮にいたとしても、そんな人間が、飲食店で、お客さんに、あれがうまい、これがうまい、などとのたまっていることを考えると、本当に恥ずかしくて、情けなくて、そして何より恐ろしくて、身悶えしてしまいます。

別にどちらが正しいというわけではありません。今回のケースにおける店員さんの回答を「おもしろくない」と思う人がいても、なんら不自然ではないでしょう。そこから始まる店員さんとのコミュニケーションを楽しみに来店する方もいらっしゃるはずですから。むしろそういう人の方が健全な気さえします。

ただ、店側に(あくまで常識的な範囲ですが)わがままを言える客と、それをすべて受け止めなくてはいけない店員という二つの視点が、まったく異なったものである、ということを、人は理解すべきなのではないかな、と思ったので、今回このような文章を起こすにいたりました。無理やりなまとめですが、とどのつまりは、客であろうが店員であろうが、思いやりあってこその人間関係だ、というところに終始するのではないでしょうか。

ちなみに、焼き鳥屋で店員さんの指差した品がなんであったかは忘れてしまったのですが、「それ鶏じゃないじゃん」と思ったことだけは、なぜかはっきりと覚えています。

失礼いたしました。

投稿者 reroy : 22:34 | コメント (7)